Yuko
Tomonaga
Yuko Tomonaga is a distinguished Japanese harpist with a record of 2 victories in international competitions. Her musical journey encompasses performances in over 10 countries and teaching engagements spanning 4 nations, as well as being a jury for Japan classic competition, she recently relocated to Singapore from Melbourne.
She is a mother to a 5-year-old and a 0-year-old, and she finds herself in a daily struggle to make her son practice the violin every day. Through that experience, she is currently working on the development of a unique curriculum centred around the theme of ”I, as a professional musician, would want to provide for my own children”. The goal is to nurture musical skills that are globally applicable, allowing children to have not only fun but also gain a comprehensive understanding of music. This will create an environment that maximises each child's potential in alignment with their individual abilities.
She is now preparing for opening infant music classes using that curriculum starting from age 0 in Singapore in 2024.
She has been performing all over the world as a soloist, her recent highlights include guest harpist roles at Harp Festivals in Russia, Hong Kong, Switzerland, and Korea. She also released a CD with Hitomi Niikura (Cello), produced by Sony Music Direct. It became a no.1 for classic chart in Japan, which is now available on iTunes and Spotify.
Yuko's Melbourne work was mainly being part of Orchestra Victoria as a guest principal harp, playing for Australian Ballet, Opera Australia and Victorian Opera. As well as Melbourne Symphony Orchestra.
Yuko won twice for international harp competitions, 1st prize at the 3rd Slovenian International Harp Competition in the highest category, gave a winner recital and it was on national TV in Slovenia with her interview. Also Yuko won 1st prize at the 13th Osaka International Music Competition, Harp Division, received the Matsuo prize, and gave a winner recital both in Kobe and Tokyo.
After graduating from Toho Gakuen High School & College of Music in Tokyo with Josef Molnar and Ayako Shinozaki, she continued her formal education internationally including graduating with a Master of Arts from the Royal Academy of Music in London with Skaila Kanga and Hugh Webb, as well as completing a graduate diploma from the Gnessin Russian Academy of Music in Moscow with Milda Agazarian.
2024年開校の0歳からの早期英才音楽教育クラス「Orchard Music Academy (OMA)」代表の朝永侑子(ともながゆうこ)は、2回の国際コンクールでの優勝経験を持ち、10カ国を超える国での演奏活動、4カ国での指導者実績や日本クラシック音楽コンクール本選の審査員等、世界的に活躍するシンガポール在住のハープ奏者である。
OMAは、音楽家である朝永自身が、2人の息子の母親として、子供の楽器の練習に日々葛藤していること、そしてハープを始めるのが小学校高学年と遅めのスタートにもかかわらず、演奏家になれたのは、幼少期に受けた音楽教育で基礎が既にできていたからと振り返る自身の経験から、「プロとしての自分が、自分の子供たちに受けさせたい音楽教育」をテーマに掲げる学校である。ソルフェージュを軸に、世界的に通用するスキルを育み、子供たちが楽しいだけではなく、きちんと音楽の本質を学びながら、その子に沿った最大限の能力、演奏を引きだせるようにすること、また、なるべく早くひとりで練習できるようにする力をつけることを目指している。またハープは現在、紹介制、審査制で人数を限定し指導中。
長崎市に生まれる。高校、大学と共に桐朋で学ぶ。卒業後に英国王立音楽院の大学院課程を修了。同時にロンドン大学の学位取得。グネーシン音楽院(ロシア、モスクワ)スタジオロフカディプロマを取得。その後オーストラリア、メルボルンに拠点を移し、国立バレエとオペラの劇場(オーケストラヴィクトリア)のゲスト首席ハープとして活動した。小澤征爾音楽塾元塾生。
第13回大阪国際音楽コンクール弦楽器ハープ部門第1位、あわせて松尾博賞を受賞。第3回スロベニア国際ハープコンクール、最上級部門カテゴリE、第1位。その他受賞歴多数。
チェリスト新倉瞳とのCD「祈り〜チェロとハープ珠玉の名曲集」(SONYミュージックダイレクト) が 国内のクラシックチャート1位をとる。TV、新聞等でのインタビュー、出演、掲載多数。
朝永侑子の生い立ちから今まで
<天真爛漫幼少時代>
地方でよくある医者一家の娘として長崎市で生まれる。幼稚園の卒業アルバムの将来なりたいものの欄も「〇〇科のおいしゃさん」と自ら科まで指定し掲載。そんなおませで気の利く長女ポジションの私は2歳の時に親にカ◯イの音楽教室に連れていかれることになる。それが音楽人生の始まり。2歳ながら当時の教室の様子や歌った歌などはおぼろげに覚えている。のちに幼稚園からは、遠い親戚のおばさまのピアノ教室に移り、そこで音当てなどの基礎訓練を経て、知らない間に絶対音感をみにつけていった模様。両親共に全く音楽とは関係ない人達なので、私がピアノを弾くことへの期待など1mmもなく「教養程度にできたら」という理由で通わされる。
3歳の時に運命の楽器ハープに出会い、一目惚れする -というのもNHKの教育音楽番組でたまたまハープが紹介され、プリンセスこそ正義、な夢見る少女だった当時の私には、これ以上ないであろう、あの優雅な見た目と、やわらかで天国にいるかのような音色にとにかく衝撃を受ける。そしてそこから母親に「私はハープがやりたい」とひたすら直談判するも、ハープなんて実物を見たこともない母からは「ゆうちゃんが20歳になったらねー」なんて流され続けていた。
<スーパー小学生>
幼稚園〜中学までの国立の一貫校でお勉強もでき、部活(金管バンド)では部長を務め、学年代表の祝辞の挨拶ポジションまでぶんどるスーパー小学生。周りのお母さんから「どうやったら侑子ちゃんみたいに育つの」と母が聞かれるような子供。負けず嫌いで朝5時に起きて勉強してから部活の朝練に行き、放課後も部活にでたあと塾にいくような毎日。今考えるとストレス系の病気に複数かかっていた(顎関節症とか)。高学年になり部活のトランペットをもっと本格的に習ってみたら?と周りから言われ、親もその気に。「それなら前からずっとハープやりたいって!」と再度猛アプローチし、やっと念願のハープを開始した。しかし当時長崎に先生はおろか、ハープを弾く人が1人もおらず、毎週福岡、東京、終いには大阪まで飛行機や電車で通いはじめる。ただ、目立つことはとにかく避けたい同調概念の強い日本人気質の母に「県外までいってハープを習ってることは誰にも言わないように」と固く誓いをたてられ、本当はやっと習える嬉しさと、無邪気に自慢したい気持ちとを胸に抱えたまま、ハープをやりたい一心で頑なに約束を守り、東京に行っても飛行場とレッスンを往復するのみで、どこにも寄り道をしないという忠誠心とともにひたすらレッスンに通う。小学校高学年という本格的にやるには遅めのスタートのハープで、他の幼少期からやってきたような子供たちにすぐキャッチアップできたのは、幼少期に既に音楽の基礎が培われていたおかげ。
<からのどん底中学生>
そんな華々しい小学生活から一変した中学生。思春期特有のこじらせと反抗期を大爆発させ、俗に言う「Too cool for school (私はこんな所にいるはずの人間じゃない)」と大勘違い。そんな嫌なやつで仲良い友達も皆無、頑張ることもダサく見え放棄、完全に居場所を失い不登校という暴挙にでる。優等生の長女から一変、学年一の劣等生への転落に家族は大パニック。ここで感動的ないい話で繋ぎたいものの特になにもなく、本当に学校が嫌いなまま、しかもなぜかちゃっかり運動会や修学旅行などの行事は参加するというわけのわからない不登校ぶりを発揮したまま卒業。ちなみに「自分みたいな中学生になったらどうしよう」と女の子を産むのが怖かったほど両親には迷惑をかけた。その心配をよそに、後に生まれてくるのはお猿さん男児2人。
中学生時代に唯一頑張ったことといえば「桐朋への受験」。こちらも皆が3歳頃から桐朋の音楽教室に通い準備している中、中2でいきなり師匠に「桐朋にくれば?」と言われ、急いでソルフェージュや楽典という、それまで聞いたことのないものを猛勉強。駆け込んだ長崎のソルフェージュの先生に、14歳の私が「桐朋を受けたいんですけど、ソルフェージュは未経験です」と正直に話すと「まぁやってみましょう(笑)」と鼻で笑われる。(ちなみに受かった時は泣いてくださったとても真摯でいい先生、それだけ私の挑戦が無謀だったということ) ただここでも小さい頃に培った絶対音感や楽譜を読む力、音楽に対する即時反応など音楽基礎力を発揮し、無事に高校に合格。
<ただただ楽しい桐朋生活>
高校・大学の桐朋生活は人生のボーナス期。気の合う一生物の友達に恵まれ、ただただ楽しい学校生活を送る。いつだったか桐朋の友達を長崎の幼なじみに紹介すると「ゆうちゃんが浮いてない」という華麗なる一言を放ったほど。15歳から日常の全てが音楽に振り切れた生活で、朝は5時半から夜は22時まで学校で練習できる環境。授業は高校なのに大学のように単位制で、たまに次のレッスンのための練習で授業をサボるという判断が暗黙の了解で許されるような、正に音楽漬けの生活。大学生になっても合コンにもロクにいったことのないような環境だったが、周りも皆そうなので特に疑問がわくこともなく、それが当たり前だった。ただ、私はそんな中、ついつい居心地のいい環境に甘えてしまい、先生方から「このままではダメよ、井の中の蛙!」というお叱りを多々受ける。その言葉を意識し始めたと共に留学を決意し、ご縁があって英国王立音楽院の大学院に進学を決める。ここから英語をなんとか間に合わせる。
<必死にもがいたイギリス生活>
英国王立音楽院の大学院に入学。と同時に一緒に学ぶハープの生徒達がほとんどイギリス人とアメリカ人の中、1人だけ授業で何を言っているか、というか、そもそも「受けなければいけない授業が果たしてこれであっているのか」がわからないレベルで、いきなりネイティブと同等の論文のクオリティを求められたり、今までやってきた練習量じゃ追いつかない実技の課題を次々に出されたりと完全に積む。それらからの心労が災いして胃潰瘍になる。ただなぜか「ここを乗り越えて英語ができるようになったら私の人生は変わる!」という謎の確信の元、必死に2年間のロンドン生活を終わらせ帰国。
<黄金独身期>
東京に再び戻った私は演奏活動を始動。「音楽で食べていく」というのは、ご想像通り、音大を卒業した人の中でもほんの一握りしかいないのが現実かもしれないが、ここはとても幸運なことに、演奏だけで生活の基盤を築けた。卒業してから俄然学ぶことに火のついた私は、働きながら練習し、ここで国際コンクールを受け2回優勝する。そしてその実績が認められ世界各国のハープフェスティバルにゲスト演奏で呼ばれたり、日本ではソロのリサイタルや、東京や地方のプロのオーケストラのエキストラで演奏したりと、精力的に活動する。当時いわゆる結婚適齢期の私は「外国人と結婚すると思う」となぜか周りに言われ続け、「いや日本人にも需要があるはず!」と反抗心剥き出しで頑なに日本人を探すも、結局皆の予言通り外国人の夫と結婚する。多分イギリスでの謎の確信はここで発揮された。
<母になったよオーストラリアで>
東京で出会った夫がオーストラリア人だっため、結婚を機に縁もゆかりもなかったオーストラリアのメルボルンに移住。と同時に第1子を妊娠し出産…と数年のキャリアのブランクができ焦る。でもここで、仕事したい!というより、息子の成長としっかり関わりたい!という気持ちの方が大きく、ハープは大幅にセーブし、ほとんど専業主婦として過ごす。とはいえ年に数回は海外から呼ばれたら、息子を1人で抱え飛行機に乗り込み、母親に現地集合でみてもらい、香港でプロを目指す子供たちのアンサンブル指導などを行う生活を送る。そして息子が3歳になり幼稚園に行き始めたタイミングで、仕事を本格的に再開すると同時に、オーストラリアの国立バレエとオペラの劇場オーケストラのゲスト首席奏者のポジションをいただく。そこからコロナで仕事があったりなかったりしているうちに夫の仕事でシンガポール移住の話がでる。
<そして今inシンガポール>
またもやシンガポールへの移住と第2子の出産が重なり、今回は「せっかく前の移住で0から頑張ったのに!」と完全にアイデンティティロスになり、心を整え自分自身を見直していく機会作る。そのうちに、ハープと同じくらい自分の息子の楽器の練習と日々向き合っている(格闘しているともいう)現実、そして息子に通わせたいソルフェージュ等の基礎を習えるお教室が、探しても中々ないことに気づく。「ないけど、どうしても必要。どうしよう。他にもそんな人がいるかもしれない。」という思いから、Orchard Music Academy (OMA)が誕生する。
ちなみに息子には決してプロの奏者になって欲しいとは思っているわけではないが、「毎日なにか継続していくことで蓄積され、上達するものがある」ということを息子に体感欲しいと思い、始めたヴァイオリン。5歳になった今、5-10分の練習だが毎日必ず弾くようにし、最近それを通してようやく演奏する楽しさがわかり始めてきた模様。
OMAは、2人の息子の母親として、子供の楽器の練習に日々葛藤していること、そして朝永侑子自身が、ハープを始めるのが小学校高学年と遅めのスタートにもかかわらず、演奏家になれたのは、幼少期に受けた音楽教育で基礎が既にできていたから。と振り返る自身の経験から、「プロとしての自分が、自分の子供たちに受けさせたい音楽教育」をテーマに掲げる学校である。ソルフェージュを軸に、世界的に通用するスキルを育み、子供たちが楽しいだけではなく、きちんと音楽の本質を学びながら、その子に沿った最大限の能力、演奏を引きだせるようにすること、また、なるべく早くひとりで練習できるようにする力をつけることを目指している。またハープは現在、紹介制、審査制で人数を限定し指導中。
<実績、学校>
・第13回大阪国際音楽コンクール弦楽器ハープ部門第1位、あわせて松尾博賞を受賞
・第3回スロベニア国際ハープコンクール、最上級部門カテゴリE、第1位
・桐朋女子高等学校音楽科、桐朋学園大学音楽学部卒業
・英国王立音楽院大学院課程修了 ロンドン大学の学位取得(Master of Arts)
・グネーシン音楽院(ロシア、モスクワ) スタジオロフカディプロマ取得
・オーケストラヴィクトリア(オーストラリア、メルボルン)ゲスト首席ハープ奏者
・小澤征爾音楽塾元塾生
・「祈り〜チェロとハープ珠玉の名曲集」(SONYミュージックダイレクト)
国内のクラシックチャート1位
・日本クラシックコンクール ハープ部門 本選審査員
<メディア出演>
・スロベニア国営放送インタビュー
・NHKイブニング長崎インタビュー
・長崎新聞インタビュー
・オーストラリアSBSラジオインタビュー
・テレビ朝日ミュージックステーション サポート出演等 多数